あの大地震と大津波後、はじめてblogを書く。
僕の実家は仙台市。
中心部に近い内陸なので、津波の被害には遭わなかったが、知人の何人かが家を流されたり、建物に閉じ込められたりした(全員命は無事だった)。
実家は、幸か不幸か、昨年11月に、寝たきりだった父が亡くなり、誰も住んでいなかった。
姉が近くに住んでいて、建物が倒れてはいないことを確認してくれたが、中はぐちゃぐちゃ。
姉の家は屋根が壊れたとか。
仙台は100万都市でありながら、田んぼと街のある仙台平野を挟んで、砂浜と山が比較的近く、
海水浴場から街を挟んでスキー場が見える。
仙台の街の全貌とその背後にある泉ヶ岳の景色が好きだった。
世界中でも、100万都市の中にスキー場と砂浜の海水浴場があるところは、そう多くないと思う。
太平洋の荒波は、全国からサーファー達も集める。
近年はサーフルアーフィッシングマンでもごった返す。
仙台港から福島の松川浦(相馬市)まで続く砂浜は、九十九里浜に匹敵するくらい長く続く。
仙台には砂浜を見ながら走れる道路がない。
海岸近くは広大な松の防風林で守られ、その中に伊達政宗がつくった長大な運河「貞山堀」が流れ、
それにそってサイクリングロードがある。
子供の頃、この美しい松林をくぐり抜けるサイクリングロードを何度走ったことか。
また、松林ではキノコが採れ、砂浜ではハマボウフウと言う、食べられる草が取れる。
父親によく、採りに連れていかれた。
キノコ、山菜は、普通山で採るが、実は海でも採れる。
仙台空港の横を通って、その先には阿武隈川の河口と内湾状の汽水湖、鳥の海がある。
鳥の海といったら、はらこめしだ。(はらこはいくらのこと。はらこと鮭の切り身を、醤油とアラで採っただしで炊き込むこのあたりの名物)
はらこ飯は、鮭といくらを使ったいちばんおいしい料理だと僕は思っている。
宮城県の南半分が砂浜であり、松島石巻を挟んで北半分がリアス式海岸の三陸だ。
松島にせり出す七ヶ浜には知人の旅館があり、泊まりに行くのは夏休み恒例だった。
数少ない有人島、野々島には、弟の奥さんの実家がある。
そこからいただいた牡蠣は鼻血が出そうなほど濃厚。
三陸にも、何度も自転車でツーリングに行った。
東松島、石巻を超えて、牡鹿半島、金華山へ行ったり、南三陸志津川、歌津、本吉、気仙沼を超えて、陸前高田へ。
リアス式海岸は、地図で見ると横にくねくねしているが、道路を走ると、上下にくねくねしていると実感する。
山を登っては港町に下り、また上っては漁港に下りる・・・の連続。
高台に上ると絶景が、海岸に降りるときれいな海とおいしい海産物。
自転車では相当走りごたえのあるルートだ。
陸前高田は本当に美しい海岸だ。
岩手県でいちばん大きな砂浜には高田松原と呼ばれる松林。
1週間滞在したこともあるし、思いがけず、伝統祭り、喧嘩七夕に参加できたこともあった。
隣の大理石海岸では、岩から真っ青な海に飛び込んだりして遊んだ。
車を運転するようになってからは、大船渡、釜石、宮古にも足を伸ばした。
大船渡には真っ黒く光る石が敷き詰められた碁石海岸。
対照的に真っ白な宮古の浄土が浜は、まさに浄土と言うべき、この世とは思えない美しい海岸。
とにかく東北の海岸線は美しく、そして自然の恵みに満ちている。
東京に住むようになっても、仙台の実家に帰るときに、東北道ではなく、海岸線を帰ったことも何度もある。
常磐道がいわきまでだった頃も。
常磐道すら使わなかったこともある。
昨年の夏も、いわき、南相馬、相馬と通って実家に帰った。
第一原発近くの請土港で食べたホッキ貝の刺身のおいしさが忘れられない。
茨城県の県境、勿来には、ビーチサッカーの大会で訪れたことがある。
砂浜のすぐ近くの民宿で、波の音を一晩中聞きながら、窓を明けっ放しにし、潮風を一杯に浴びて寝た。
朝日とともに起きて、目の前の砂浜で、みんなでで釣りをすると、安い釣り具なので、波がざぶざぶくる目の前にしか届かなかったのに、がんがん釣れる。
それを民宿のおばさんに焼いてもらい、朝食に食べた。
とてもいいところだったので、次の年に再び泊まりにいった。
銚子から鹿嶋に続く波崎にも、ビーチサッカーの大会で訪れた。
サッカーの街を目指していた波崎には、たくさんのサッカー場と、美しい砂浜。
大会後、チームのメンバーで海に入り、昼飯を賭けて蛤採り競争をした。
全部が思い出の地だ。
そしてそこに住む人々は温かかった。
まだ、どのくらいかわからないほどの人達が見つかっていない。
美しい田園風景は水浸しで、港町はまるで空襲の後の様に、なにもない。
どうしても、いまは希望より絶望感が先にたつ・・・
早く、この忌々しい記憶を飲み込んで、あの美しい東北の海をたり戻すために立ち上がりたいのに、
原発という骨がのどに刺さって飲み込めないようないらだちが続く。
(現場の人達の、命がけの努力が早く実ってほしい)
でも、何もできずに毎日テレビを見ていると、復活を誓って力強く動き出している人達が映る。
「それでもやっぱりここに住みたい」という人。
「もう海沿いには住みたくない」という人・・・・
仙台の姉も、いまだに食料調達には何時間もならび、ガソリンは全く手に入らないとのこと。(今週末には改善されるというニュースだが)
東北道が全線開通し、東京のガソリンも安定してきたので、そろそろ仙台に行って実家の片付けをし、現場を見て、何ができるかを模索しようとおもう。
今すぐにできることもたくさんあるだろうが、東日本の太平洋側全体という広大な被災地が立ち直るには何年も・・・10年はかかるという意見もある。
一過性の支援ではなく、続けていかなければならない。
さらに、元々大不況だった日本全体に、これから訪れる経済的大打撃にも立ち向かわなければならない。
原発をどうするのか。電力はどうするのか。
もう一度美しい海岸線を、港町を、松林を、田園風景を。
復活以上に、美しく、安全で・・・
そしてそれが日本全体に広がるように・・・
僕は絵描きだが、その前にサラリーマンを9年、
イラストレーターになって10年。
漠然と10年くらいで新しいことをしたいなという考えがあったが、
そのタイミングなのか?(もちろん描くことは一生続けるが)
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遥か続く砂浜と松林。荒浜海水浴場(仙台 2009年撮影)