今日は大切な「命」の話し。植物は伸びる。生きているのだから当たり前だが、どんどん延びる。だから剪定をする。切った葉や、あるいは茎、幹はどうする。植物を育てはじめた頃は、青々とした葉や元気な茎などは、まだまだみなぎっている生命力に、そのまま捨てる気にはなれないだろう。植物も育てているうちに愛着がわく。愛称をつけたり名前をつけたり、話しかけたりする人もいるだろう…。既にその植物は1人(または1匹)の人格を持っているように思えてくる。そしてその植物を剪定したとき、切り取られた瞬間から、その葉、茎には分身として、もう一つの人格を持ってしまう。飼っている猫の爪を切ってあげても、爪には何の未練も感じないが、モンステラを切り戻した茎は話が違う。まあ、モンステラも、伸びた気根を切っても、それはあまり分身として認識しないので、猫の爪は、モンステラでいえば伸びた気根か。
 なら、ポトスのように、放っておけばどんどん伸びるやつはどうか。伸びては切って短くし、また伸びては切って短くする。切り戻すと枝分かれしたりして、今度は切る場所が二カ所になったりする。切り戻す度に、切った茎がどんどん増えていく。初めはそれを瓶に挿してキッチンで楽しんだり、植木鉢に植えて増やしたりするが、すぐに部屋中がポトスになってしまうほど増える。
 バニーカクタスなどは、どんどん伸びて、ちぎれて落ちて、勝手にそこから生えてくる。自分の植木鉢に入りきらないやつが、隣の植木鉢などに落ちて、そこからまた生えてくる。
 オリヅルランにいたっては、初めから分身の形をしたやつが、隣の植木鉢めがけて伸びて来る…。

 大切な命。捨てるのは忍びない。自分で増やすか、増えたものは人にあげたりして大切にする……そんなことを思ったのも最初だけ… あまりにもどんどん増えるとそんなことは言っていられなくなる。人間は勝手なもので、どんどん増えると、そこにはもう分身の愛らしげな人格は全く感じられなくなる。街中で見かける街路樹の剪定で、道路に散乱した枝を箒で一気に掃かれ、粉砕器にかけられるのを見ても、だれも「大切な命が!」とは思わないだろう。コンクリートジャングルの都会の道路の端に、ひと株だけ生えた雑草をいると、力強い生命力を感じてとてもいとおしく思えたりするくせに、庭にわんさか生える雑草や、植木鉢に勝手に生えてきた雑草をみても、逆に憎らしさを感じるか、そんなものを感じるまもなく抜いて捨ててしまうか…そんなものである。

徒長したバニーカクタスは、いっそうウサギの耳のよう。これがぽろぽろ勝手にちぎれて落ちては、そこから根が生える…

 昭和の時代には、サボテンに歌わせたり、しゃべらせたりするテレビ番組をよくやっていたが、最新の研究結果では、植物にもやはり意識があるらしいという話になってきてるようだ。そしてそのうちに、その植物が何を考えているかわかるようになる日が来るのだとしたら、モンステラを切り戻した瞬間、植木鉢に残った親株と、片手に持った切った株、両方に意識が生まれるのだろうか。そんなとき、どちらの意見を聞き入れるか迷って困ってしまう自分がいる、そんな未来がやってくるのだろうか…。

伸びたモンステラを切り戻し、植え替える。どこまで命があるか問題で悩む…

2020年 7月 15日 雨   梅雨明け待ち遠し…