column

98年秋音楽秘宝「ベスト盤でOK」へのコラムです、60年代の10年間の私の音楽史をいっきに書いた結構面白い文です。

GOLDEN '60Sの幕開け、1960年1月にふりかけの老舗、丸美屋食品工業から「のりたま」が発売。その3年後、アニメ「エイトマン」のスポンサーとなったおかげで「のりたま」は子供達の間で大ヒット!桂小金治のCMを真似をしながらふりかけ御飯をおかわりをしていた小学生、それは私です。

さて、そんな’60年代初頭、学校から帰ってきた私の日課は友達と自転車で街を走り回ること。通り抜ける商店街のラジオから聞こえてきたのはコニーフ ランシスやニール セダカらのとろけるような甘い歌声だった。当時、東京の街はオリンピックに向けて何処もかしこも工事中、空地は資材置場と化し、都会の子供達のかっこうの遊び場となっていた。テレビドラマ「コンバット」のテーマを歌いながらの戦争ごっこ、私はサンダース軍曹役の友達に撃たれてじゃり山から転げ落ちるドイツ兵だった。「史上最大の作戦」「大脱走」何故か戦争映画のいきのよいマーチがヒットしていた。泥だらけになった私は夕焼けに送られ夕飯の用意された家路につく。家に帰ればテレビのチャンネルをガチャン!坂本九、森山加代子、弘田三枝子、パラダイスキングら憧れのスターが奇妙な日本語でアメリカ産ヒット曲をカバーしまくる歌番組に夢中だった。新曲は必死に覚えなくてはいけない、明日学校で歌うのだから、、勿論、流行りのダンスは言うまでもない。「ドドンパ」はもう常識のステップ、昼休みの校庭では今、ツイスト真っ盛り。中でも変則ツイストナンバー植木等の「ハイ!それまでよ」が異常な人気を呼んでいた。

それなりに色気が出始めた小学6年生のある日、情報通の友だちが教えてくれた「今、イギリスに凄いグループがいるらしいぜ」。私は頭の中で考えた「イギリス?」、アメリカ中心の日本人は誰もがピンとこなかったはずだ。そしてそれがビートルズという話題のグループだと知った時はもう中学生になっていた。ラジオでも聴いたしクールキャッツやスリーファンキーズらが歌うのもテレビで観たが、あまりぱっとしたものではなかった。新宿に出かけたとき映画館の前に大きなポスターがかかっていた。「ヤァヤァヤァ、ビートルズがやって来る!」熱い日射しを受けて4人が飛び跳ねている姿がぼんやり見えた。「フーン、これが ビートルズか、、、」ヴェンチャーズにシビレ始めていた私はちょっと興味をそそられた。そしてその冬、町中で「抱きしめたい」を嫌というい程聴くことになる。年が明けた春休み、家族揃ってのんびりとテレビを見ていると「エドサリバン ショウ」という新番組の紹介が始まった。いきなり「抱きしめたい」を歌う動くビートルズがブラウン管に写しだされ時、私を衝撃が襲った。こうして私 はビートルズ情報を知るために音楽雑誌やレコード屋、ラジオのFENをチェックし始め、新しい音楽にのめり込んでいった。たんすの上の小さなラジオにかぶりつくようにしてヤードバーズ「フォーユァ ラブ」ストーンズ「ラストタイム」ゾムビーズ「シーズノットゼア」そしてビートルズの新曲を聴いていた。そんな姿を見かねたのか、親はステレオを買ってくれた。しかし、家には姉の買ったレコード「ウエストサイド物語」のLPとブレンダリーやブラザース フォーのシングル盤しかなかった。私は必死で小使いを溜め、やっとビートルズのシングル盤 「ロック ン ロール ミュージック」を買った。この頃、来日アーテイストが公演中継を通じてブラウン管に登場、ピーター&ゴードン、アニマルズ、アストロノウツ、サファリーズ、ヴェンチャーズ、ビーチボーイズなどお茶の間に英米のロックがさり気なく流れていた。しかしロックを聴いてる中学生なんてクラスに2〜3人居る程度、私も社会見学のバスの中では舟木一夫の「高校三年生」や三田明の「美しい十代」などをみんなと一緒に歌っていたのである。そして’66年、小使いを前借して行ったビートルズの日本公演を体験、頭がからっぽになった夏、FENからはキンクス「サニーアフタヌーン」バーズ「霧の8マイル」ラビン スプーンフル「ディドリーム」と不思議な音楽が流れていた。秋にはサークルの「ターンダウン ディ」にしびれっぱなしだった。しかし日本のヒットパレードは空前のエレキとフォークブーム、加山雄三が毎日テレビ、ラジオから聞こえてくる。スパイダースの「夕陽が泣いている」を口ずさみながらビートルズの「リボルバー」をよく理解できないでいたある日ラジオからまた不思議な音楽が聞こえてきた、ビーチボーイズの「グッドヴァイブレーション」!そして数カ月後の翌年、ビートルズ待望の新作「ストロベリーフィールズフォーエバー」が初めてラジオの電波にのった、、、怒涛の音楽革命が始まっていた。高校生になったその年から私はテレビの歌番組は殆ど見なくなっていた、人気グループサウンズがクチパクで歌うヒット曲など聴きたくもなかったのだ。その変わりにFENを含め殆どの洋楽音楽番組を聴きまくっていた、日本初の深夜番組もスタートしていたし、アイアンバタフライやクリームの10分以上の長い曲に夢中になった、まだAM放送の時代だった。また週末の夜、歌舞伎町のゴーゴークラブではよ く日本のバンドを見た。オーテイスやサム&デイブのR&Bのレコードと交互にステージではレコードデビュー前のグループが生演奏していたが当時流行のニューロックナンバーを黙々と演奏していたパワーハウスやブルースクリエイションが好きだった。その暗闇で日本のロックの夜明けを知らぬ間に体験していた私は翌年大学受験を控え、ビートルズにそろそろ飽き始めた1969年、60年代末の締めくくりに買ったレコードはジュリードリスコルとブライアン オーガー「ストリート ノイズ」の日本盤だった。

コモエスタ八重樫(5th GARDEN)

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